追記:(2025年になり、総集編が発売されています。また、どちらも書き下ろしを含んでいるので、最終話だけ見ている人でも追加の話があります。ニコ動あの時見ていた人は必見です!)
特に上巻のエロイプは使えるはず。。。。
コミックは2020年11月号が通算200号だそうです。この記念すべき号において、クジラックス氏の「歌い手のバラッド」の最終話が掲載されました。
クジラックス先生の「歌い手のバラッド」が完結したので、ここに至るまでの経緯を振り返りつつ、最終話の紹介をしたいと思います。
クジラックス先生は2008年ころからエロ漫画家として活動をはじめ、すでに一部では知名度がありましたが、転機となったのは2011年7月。
コミックLOの熱心な購読者(創刊号から読んでいる)として知られる評論家の東浩紀氏によって作品を紹介されたことで注目を集め、単行本「〇りとぼくらの」が異例のヒット作になりました。(売上部数10万部越え)
上の本に収録されている「らぶいずぶらいんど」という作品のこのコマは今でもたまにTwitterで使われていますが

少女を犯すような作品を描いていながら少女側の内面を丁寧に描いたり、露悪的な内容を描きつつも一方で自虐的な明るさがあったり、変わった言語センスが発揮されたり、風刺的なアングルでの描写があったりと、一筋縄ではいかない作風で読者をひきつけてくる漫画家さんです。
ちなみに、騒動のきっかけとなった東浩紀氏とは2012年3月頃に直接会って話をされたそうです。
その後もコミックLOなどで商業漫画家として執筆をつづけていましたが、精神的なプレッシャーが原因で2013年9月に商業漫画の休止を宣言。
その後は同人誌で「がいがぁかうんたぁ」「がいがぁかうんたぁ2」「わんぴぃす」などの作品を発表します。「わんぴぃす」は全8話構想の作品でしたが、1作目だけが制作され、2作目以降はプロットという形で掲載されました。「わんぴぃす」については以前にブログで紹介しています。
※ちなみに、本作品には上京後女子高生に盗撮疑惑をかけられ教師が復讐をする話が収録されていますが、クジラックス先生自身が実体験として、女子高生に盗撮疑惑をかけられた事があるそうです。
2015年11月に商業漫画家として復帰し、「歌い手のバラッド」の不定期連載を開始します。

連載中の2017年には過去の同人誌(がいがぁかうんたぁ)の手口を模倣した犯罪が起きたことで警察に事情聴取を受け、作品内容もあいまってまたしても表現規制のやり玉に挙げられてしまいます。
この事件の影響かどうかはわかりませんが、歌い手のバラッドは2018年12月に7話が発表されてから2年近く更新がなく、ようやく最終話を迎えることになりました。
ちなみに、その間に「初めてのJKモノに挑戦した作品」と作者自らが語る「どきどきチケットチャレンジ!」という作品を執筆されています。
2018年には「知るかばかうどん」先生との対談も行ってますね。
何気にクジラックス先生は筆まめな人で、ブログでその時々の心境などを文章に残されているので興味のある方は実際に読んでみると良いと思います。
そんなわけで、読者としてもこういう経緯を思い浮かべつつ「歌い手のバラッド」をどういう風に着地させるんかなと気になっていたのですが、個人的にはとても良い終わり方だったと思います。
長々と前置きを書きましたが、ここからが「歌い手のバラッド」最終話の内容です。
まず7話目までのあらすじですが、親切なことにコミックLOさん自身があらすじを用意してくれています。
あれだけやらかした聖亜ですが最終話ではほとんど出てきません。
実際この最終話は単体として成り立っており、最終話においては聖亜は「桐島、学校やめるってよ」の桐島と同じように「聖亜、逮捕されたってよ」くらいのマクガフィン的存在としてみることができます。最終話のメインは①「別の歌い手」と、②「聖亜にヤリ捨てられた女の子」の二つです。
まず歌い手の方から。3人の男子による歌い手グループが冒頭から登場します。
このグループは歌い手界隈では絶大な人気を誇っています。聖亜と違って、歌い手界隈ではトップクラスに成功した存在です。彼らは聖亜以上に女の子を食い放題で、この世の春を謳歌していました。
そんあある日、彼ら3人はメジャーレコードから声を掛けられ、「新世代のメジャー歌手」の夢をちらつかされて意気込みながら歌番組に殴り込みをかけます。
しかし……結果としては悲惨なものでした。

これまでの話では、聖亜が「歌い手界隈の中」でのヒエラルキーの差を思い知らされて絶望を味わう展開があったのですが、最終話では「歌い手界隈ではトップ」の人間が「歌い手の世界の外」とのギャップでボロボロにされるわけですね。
歌い手の3人も女をヤリすてまくるクズ野郎ですが、大人たちはその食物連鎖のさらに上なんですね。「この世界なら自分はもっと輝けるかもしれない」という欲を持ってこの世界に乗り込んだ歌い手たちは、大人たちによって食い物にされ、ヤリ捨てられそうになります。

しかし、ここでくじけてしまって向上心を失い、自分に優しい世界に逃げ込もうとした聖亜と違い、この3人たちはあきらめません。

さっきも書いた通り、この3人はもともとは女を囲ってちやほやされたいという理由だけで歌い手をやってたらたまたまうまくいって調子に乗ってしまったようなクズ野郎でした。
そんな人間が、大勢の前で恥をかかされプライドもバキバキにへし折られ、信者以外の前で歌うことの怖さも知った。普通だったら聖亜と同じように自分たちの囲いのもとに逃げ帰ってもおかしくなかったと思います。
でも、この3人は相手の思惑がどうあれ、彼らはメジャーデビューのチャンスを得て、どれほどバカにされたといってもしばらくの間は「歌い手」ではなく「歌手」として猶予を与えられたのだから頑張ってみることにします。ここら辺のシーンはかなり面白いです。(※クジラックス先生も最初ヤングサンデーの新人賞で佳作を受賞し、それからマンガ家になるために上京するも、雑誌そのものが休刊し、アシ作業を勤め口すら失って食うに困ったところを踏ん張ってエロ漫画家に転身したという経緯がありますね)
もちろん、そうはいっても現実は厳しいです。
ちょっと歌がうまい素人が本気になったところで、才能があって養成所で育てたられた人たちが活躍するメジャーの土俵では勝てません。結局あっさり放逐される展開になります。

それでも、頑張ってみた彼らにはそれほど悲壮感はありませんでした。
むしろ、彼らは歌い手として信者ちやほやされることの悦びを知り、さらにバカにされてもめげずに全力で取り組むことを体験した。もう普通に生きていくことなんてできません。
彼らはその後知名度を生かしてYoutuberに転身し、やはり面白おかしくやっていくことになります。

彼らも、自分たちが以前女の子たちに対してそうやってたように大人たちにヤリ捨てられたわけですが、それで人生が終わったわけではなく、その後も好きなように人生楽しんでるんですね。
この歌い手たちと同様に、7話までで聖亜たちにヤリ捨てられた彼女たちも、大半はそれぞれの道を歩んでいる姿が描かれます。あれだけ「聖亜様がいないと生きていけない」みたいに心酔していた彼女たちは、別に彼がいなくても平気になってるんですね。

この人は聖亜にヤられた人ではないですが、同じように歌い手界隈でいろいろあった人のようです。その人が人生相談のコーナーでそういったヤリ捨てられた経験について「夢にあこがれて飛び込んだことを黒歴史にしてうずくまるか、それともそれを糧にして進むかは自分次第だ」と前向きな受け止め方を示しています。(蛸壺屋の「けいおん」同人誌に出てくる伊集院のセリフを思い出しますね)
というわけで。
7話目までは夢や欲望に踊らされる歌い手、そんな歌い手に幻想を抱いて好き放題にされる女の子たちをやたらと露悪的に、滑稽なものとして描いてきた「歌い手のバラッド」ですが、最終話においてはこの描写が一転して、「歌い手」も、「歌い手を愛する人たち」もどちらも肯定する終わり方になっています。

これって今やたらと批判されているVTuber界隈の人にも通じる話だと思うんですよね。
現実においても、歌い手だのVTuberだのの界隈は、大人たちの計算や個々人の欲望にまみれた汚い世界なのだろうと思います。それ自体は気を付けた方が良いと思います。それを全く考えようとしなかったり、そこの部分から必死に目をそらそうとするくらい前のめりになっちゃってる人は「養分乙」とか「おいおいあいつ〇ぬわ……」って気持ちになります。
でもね、だからと言ってそれだけで歌い手やVTuberの魅力がすべてなくなるかというとそんなわけない。「歌うことが好き」「VTuberとして演じることが好き」だとか「歌っている人を見るのが好き」「VTuberを推している時の自分が好き」という気持ち自体は決して否定されるべきものではない、とこの作品は語っているように思います。
万が一、信じすぎて裏切られたり傷ついたとしても、その気持ちが嘘になるわけじゃない。自分さえその気になれば痛い経験すら糧にできる。すべては自分次第なのだ。そんな感じですね。これって、個人レベルで表現活動をやってる人とか、そういうプロとは違う表現活動を愛する人たちへの人間賛歌なんじゃないかなって思います。
そんなわけで、エロに抵抗がない人は、最終話だけでも読んでみてほしいなと思います。
ちなみにこの人間賛歌の輪からはじき出された形になっている7話までの主人公の聖亜君はどうなったかというと……それは自分の目で確かみてみろ!
特に上巻のエロイプは使えるはず。。。。
コミックは2020年11月号が通算200号だそうです。この記念すべき号において、クジラックス氏の「歌い手のバラッド」の最終話が掲載されました。
連載開始してから1428日、天才と呼ばれながら過食・睡眠障害・性欲減退に苦悶し続けた不器用な漫画家・クジラックスの見出した「歌い手」とは、いったい何だったのだろう?
クジラックス先生の「歌い手のバラッド」が完結したので、ここに至るまでの経緯を振り返りつつ、最終話の紹介をしたいと思います。
クジラックス先生の遍歴について
クジラックス先生は2008年ころからエロ漫画家として活動をはじめ、すでに一部では知名度がありましたが、転機となったのは2011年7月。
コミックLOの熱心な購読者(創刊号から読んでいる)として知られる評論家の東浩紀氏によって作品を紹介されたことで注目を集め、単行本「〇りとぼくらの」が異例のヒット作になりました。(売上部数10万部越え)
上の本に収録されている「らぶいずぶらいんど」という作品のこのコマは今でもたまにTwitterで使われていますが

少女を犯すような作品を描いていながら少女側の内面を丁寧に描いたり、露悪的な内容を描きつつも一方で自虐的な明るさがあったり、変わった言語センスが発揮されたり、風刺的なアングルでの描写があったりと、一筋縄ではいかない作風で読者をひきつけてくる漫画家さんです。
ちなみに、騒動のきっかけとなった東浩紀氏とは2012年3月頃に直接会って話をされたそうです。
商業活動休止 →同人誌 →商業活動復活
その後もコミックLOなどで商業漫画家として執筆をつづけていましたが、精神的なプレッシャーが原因で2013年9月に商業漫画の休止を宣言。
その後は同人誌で「がいがぁかうんたぁ」「がいがぁかうんたぁ2」「わんぴぃす」などの作品を発表します。「わんぴぃす」は全8話構想の作品でしたが、1作目だけが制作され、2作目以降はプロットという形で掲載されました。「わんぴぃす」については以前にブログで紹介しています。
※ちなみに、本作品には上京後女子高生に盗撮疑惑をかけられ教師が復讐をする話が収録されていますが、クジラックス先生自身が実体験として、女子高生に盗撮疑惑をかけられた事があるそうです。
2015年11月に商業漫画家として復帰し、「歌い手のバラッド」の不定期連載を開始します。

不運なことにまたしても望まぬ形で注目を集めるクジラックス先生
連載中の2017年には過去の同人誌(がいがぁかうんたぁ)の手口を模倣した犯罪が起きたことで警察に事情聴取を受け、作品内容もあいまってまたしても表現規制のやり玉に挙げられてしまいます。
この事件の影響かどうかはわかりませんが、歌い手のバラッドは2018年12月に7話が発表されてから2年近く更新がなく、ようやく最終話を迎えることになりました。
ちなみに、その間に「初めてのJKモノに挑戦した作品」と作者自らが語る「どきどきチケットチャレンジ!」という作品を執筆されています。
2018年には「知るかばかうどん」先生との対談も行ってますね。
何気にクジラックス先生は筆まめな人で、ブログでその時々の心境などを文章に残されているので興味のある方は実際に読んでみると良いと思います。
そんなわけで、読者としてもこういう経緯を思い浮かべつつ「歌い手のバラッド」をどういう風に着地させるんかなと気になっていたのですが、個人的にはとても良い終わり方だったと思います。
待ちに待った「歌い手のバラッド」最終話の内容について
長々と前置きを書きましたが、ここからが「歌い手のバラッド」最終話の内容です。
まず7話目までのあらすじですが、親切なことにコミックLOさん自身があらすじを用意してくれています。
これは――歌い手・聖亜がファンのJCを喰いまくる、愛と欲望の物語である。
動画配信サイトに「唄ってみた」動画を投稿するいわゆる「歌い手」である聖亜(27歳)は、生放送配信でリスナーと交流するかたわら、JCのファンばかりを狙って性的関係を持つことをライフワークとしていた。時に自分の部屋に招き入れ、と恋に素敵なデートに誘い、時に同人イベントで物色するなど、様々な方法で処〇JCを落とし、アフターピルを飲ませて生ハメ中だし〇ックスを繰り返していた。
そんなある日、歌い手の合同ライブに出演することになる聖亜だが、他の有名歌い手の輪に入れず、運営にもぞんざいに扱われ、散々な思いをする。しかしファンのやさしさに励まされ、今まで以上にJCとの〇っクスにのめり込んでいく。その勢いのまま、聖亜は日本全国を巡るワンマンライブツアーへ……。
放蕩の日々の中、ヤリ捨てされた少女がSNSで聖亜との関係を暴露し、それがもとでマスコミ・ネットを巻き込んだ大炎上事件に発展。数々の「社会的崩壊」に打ちのめされる聖亜だったが、ついに逮捕されてしまう。
ロ〇コン犯罪者という世間の容赦ない好奇心にさらされながら、聖亜の心に去来するのは、中学時代の憧憬と後悔、そして歌うことへの自問であった。それから少し時が流れたある場所から、この物語は始まる―。
最終話「歌い手は、歌うのが好き」は、7話までの主人公聖亜と関係ない別の歌い手がメインの物語
あれだけやらかした聖亜ですが最終話ではほとんど出てきません。
実際この最終話は単体として成り立っており、最終話においては聖亜は「桐島、学校やめるってよ」の桐島と同じように「聖亜、逮捕されたってよ」くらいのマクガフィン的存在としてみることができます。最終話のメインは①「別の歌い手」と、②「聖亜にヤリ捨てられた女の子」の二つです。
まず歌い手の方から。3人の男子による歌い手グループが冒頭から登場します。
このグループは歌い手界隈では絶大な人気を誇っています。聖亜と違って、歌い手界隈ではトップクラスに成功した存在です。彼らは聖亜以上に女の子を食い放題で、この世の春を謳歌していました。
そんあある日、彼ら3人はメジャーレコードから声を掛けられ、「新世代のメジャー歌手」の夢をちらつかされて意気込みながら歌番組に殴り込みをかけます。
しかし……結果としては悲惨なものでした。

俺たちを知らない客の前でやるの……こんなに怖かったのかよ……
今までの…あの環境は……
これまでの話では、聖亜が「歌い手界隈の中」でのヒエラルキーの差を思い知らされて絶望を味わう展開があったのですが、最終話では「歌い手界隈ではトップ」の人間が「歌い手の世界の外」とのギャップでボロボロにされるわけですね。
売り出す側は最初から彼らを大事に育てようとか教育しようなんて全く思っていない。
歌い手の3人も女をヤリすてまくるクズ野郎ですが、大人たちはその食物連鎖のさらに上なんですね。「この世界なら自分はもっと輝けるかもしれない」という欲を持ってこの世界に乗り込んだ歌い手たちは、大人たちによって食い物にされ、ヤリ捨てられそうになります。

しかし、ここでくじけてしまって向上心を失い、自分に優しい世界に逃げ込もうとした聖亜と違い、この3人たちはあきらめません。
俺だって、大学中退して東京来たんだ!もう後には引けねーんだよ!

さっきも書いた通り、この3人はもともとは女を囲ってちやほやされたいという理由だけで歌い手をやってたらたまたまうまくいって調子に乗ってしまったようなクズ野郎でした。
そんな人間が、大勢の前で恥をかかされプライドもバキバキにへし折られ、信者以外の前で歌うことの怖さも知った。普通だったら聖亜と同じように自分たちの囲いのもとに逃げ帰ってもおかしくなかったと思います。
でも、この3人は相手の思惑がどうあれ、彼らはメジャーデビューのチャンスを得て、どれほどバカにされたといってもしばらくの間は「歌い手」ではなく「歌手」として猶予を与えられたのだから頑張ってみることにします。ここら辺のシーンはかなり面白いです。(※クジラックス先生も最初ヤングサンデーの新人賞で佳作を受賞し、それからマンガ家になるために上京するも、雑誌そのものが休刊し、アシ作業を勤め口すら失って食うに困ったところを踏ん張ってエロ漫画家に転身したという経緯がありますね)
もちろん、そうはいっても現実は厳しいです。
ちょっと歌がうまい素人が本気になったところで、才能があって養成所で育てたられた人たちが活躍するメジャーの土俵では勝てません。結局あっさり放逐される展開になります。

それでも、頑張ってみた彼らにはそれほど悲壮感はありませんでした。
むしろ、彼らは歌い手として信者ちやほやされることの悦びを知り、さらにバカにされてもめげずに全力で取り組むことを体験した。もう普通に生きていくことなんてできません。
彼らはその後知名度を生かしてYoutuberに転身し、やはり面白おかしくやっていくことになります。

彼らも、自分たちが以前女の子たちに対してそうやってたように大人たちにヤリ捨てられたわけですが、それで人生が終わったわけではなく、その後も好きなように人生楽しんでるんですね。
7話までに聖亜たちにヤリ捨てられた彼女たちもたくましく生きている姿が描かれる
この歌い手たちと同様に、7話までで聖亜たちにヤリ捨てられた彼女たちも、大半はそれぞれの道を歩んでいる姿が描かれます。あれだけ「聖亜様がいないと生きていけない」みたいに心酔していた彼女たちは、別に彼がいなくても平気になってるんですね。

この人は聖亜にヤられた人ではないですが、同じように歌い手界隈でいろいろあった人のようです。その人が人生相談のコーナーでそういったヤリ捨てられた経験について「夢にあこがれて飛び込んだことを黒歴史にしてうずくまるか、それともそれを糧にして進むかは自分次第だ」と前向きな受け止め方を示しています。(蛸壺屋の「けいおん」同人誌に出てくる伊集院のセリフを思い出しますね)
とかゆてそんな簡単には忘れられへんよな~~!むっちゃわかる~~!思い出の扉開く~!
あ~どうしたら吹っ切れるかやけど…
没頭できる趣味を持て!恋愛以外の!
これはガチ!ソースはウチ!
というわけで。
7話目までは夢や欲望に踊らされる歌い手、そんな歌い手に幻想を抱いて好き放題にされる女の子たちをやたらと露悪的に、滑稽なものとして描いてきた「歌い手のバラッド」ですが、最終話においてはこの描写が一転して、「歌い手」も、「歌い手を愛する人たち」もどちらも肯定する終わり方になっています。

「歌い手のバラッド」は、すべての個人の表現活動やその表現を愛する人たちへの賛歌である
これって今やたらと批判されているVTuber界隈の人にも通じる話だと思うんですよね。
現実においても、歌い手だのVTuberだのの界隈は、大人たちの計算や個々人の欲望にまみれた汚い世界なのだろうと思います。それ自体は気を付けた方が良いと思います。それを全く考えようとしなかったり、そこの部分から必死に目をそらそうとするくらい前のめりになっちゃってる人は「養分乙」とか「おいおいあいつ〇ぬわ……」って気持ちになります。
でもね、だからと言ってそれだけで歌い手やVTuberの魅力がすべてなくなるかというとそんなわけない。「歌うことが好き」「VTuberとして演じることが好き」だとか「歌っている人を見るのが好き」「VTuberを推している時の自分が好き」という気持ち自体は決して否定されるべきものではない、とこの作品は語っているように思います。
万が一、信じすぎて裏切られたり傷ついたとしても、その気持ちが嘘になるわけじゃない。自分さえその気になれば痛い経験すら糧にできる。すべては自分次第なのだ。そんな感じですね。これって、個人レベルで表現活動をやってる人とか、そういうプロとは違う表現活動を愛する人たちへの人間賛歌なんじゃないかなって思います。
そんなわけで、エロに抵抗がない人は、最終話だけでも読んでみてほしいなと思います。
ちなみにこの人間賛歌の輪からはじき出された形になっている7話までの主人公の聖亜君はどうなったかというと……それは自分の目で確かみてみろ!
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